こんにちは。
シーナリーハウスの西村です。
子どもの夏休みも終了し、2学期のスタート、学校に行きはじめました。
学校大好きというか、友達大好きのうちの娘は、朝から元気に登校しています。
今日のテーマは、
「建築家になれなかった自分と向き合う」についてです。
建築家になれなかった自分、建築家にならなかった自分、と向き合う。
何かネガティブなテーマの内容のようですが、決して、そうではありません(笑)。逆に、かなりポジティブな内容になっておりますので、良かったら、是非、ご拝読ください。
たまたまですが、建築家になることを志し、建築のことがいの一番で考えて生きていた建築少年時代であった熊本大学の大学院時代で同級生だった人の熊本での活動をネットで知り、当時の思いに馳せていたのですが・・・・
その人は、学生時代、そんなに建築好きでもなく、建築デザインのセンスもなく、モラトリアムで大学院に通っていたような人物でしたが、今は、設計事務所を経営(おそらく一人経営)しているようで、世に言う、建築家という部類になるのでしょうか!?
熊本は熊本アートポリスという建築の文化活動があり、建築家が活動しやすい土壌ではあるのですが、HPを見る限り、ほとんど仕事というか住宅メインで仕事をしている割には実作の住宅作品は近年、ほとんどないような感じでした。
どうやって生活しているんだろう~
建築家の友人や知人の話を聞くと、そう思うこと多々あります。人の米びつの話、彼らからしたら余計なお世話かも知れませんが・・・(笑)
学生時代、良く指導を受けていた、桂先生(熊本県小国町にある木魂館が代表作である建築家の桂英明氏)によくこう言われていました。
「いい建築家になるには、霞(かすみ)を食って生きる覚悟がないとダメだ!」
「金が欲しいなら、建築家になるな!ゼネコンに行って現場監督になれ!」
夢のある、それもそれなりの国立大学で建築を学んでいる学生に対してのこの言葉。スゴイですよね、リアルすぎて・・・(笑)。
それだけ、建築家になること、建築家で成すことは大変だぞ、そう甘いもんじゃないぞ、覚悟しろよ、ということを言いたかったのだと思います。
その当時、八代高専から母校の熊本大学に移籍されて、桂先生が一番熱い時期でありました。
桂先生は、現在、熊本大学は退官されており、建築家の伊東豊雄に乞われて、現在の熊本アートポリスのコミッショナー伊東豊雄さんのサポートを右腕としてされております。
ま~、恐ろしい先生でした(笑)。
「絶対に、熊本大学から活躍できる建築家を輩出するぞ!」と今考えるとパッションが半端なかったですね。
「田舎の大学の学生は、先ずは、学生コンペで賞を獲れ!それも最優秀賞を」
そして、
「その功績を引っ提げて有名アトリエとか有名設計事務所に就職するんだ!」
そう掛け声をかけて、どれだけのコンペに応募しましたか、4年から大学院時代の3年間のかなりの時間を費やし、コンペで夜遅くまで、徹夜も普通にで研究室で作業しておりました。
若い時は、それが楽しいんですよね。いい思い出です。
大分出身の世界的建築家の磯崎新さんがコミッショナーでスタートした熊本アートポリスの初年度なんかは、桂研究室の連中はみんなで裏方のサポートに駆り出され、それにより、世界的な著名な建築家の講演会とか懇親会とか、いろいろな多くの場に同席させてもらうことが出来ました。
東工大の坂本一成研究室との交流で、当時から頭角を現していた建築家塚本由晴さん、当時はまだ結婚してなかったけどパートナーであった貝島桃代さんと一緒に小国町で建築プロジェクトをしたこともあります。二人の設計事務所アトリエ・ワン、それから有名建築事務所になっています(実物、どれも個人的にはいいと思いませんが・・・・)
と、
こういう、昔話をさせると時間がいくらあっても・・・(笑)となりますので、割愛しまして、
そうなんです。
このように建築少年であった私、東京の設計事務所(山田守建築事務所)で挫折したからこそ、今の私がありますが、そのまま、霞を食って生きる方に行っていた可能性の十二分にあったわけでございます。
それはそれで、好きなことをして生きていく道、他の世界を知らずに、知らぬが仏で、幸せだったかも知れませんが、一旦、建築以外の世の中をリアルに知ってしまうと・・・
やはり、自分には自分にあった道というものがあるわけでして、今の道は自分に合っていると思っております。
人生、行き着くところに行くんだなと自分の人生、楽しんであります。
いろいろな仕事をして、いろいろな世界を知り、いろいろな分野の人と交わり、仕事人生は普通の人の仕事人生の何倍も楽しんでいるような気がしています(キャリアをリセットしての何度ものゼロスタートの時の大変さは、人間、喉元過ぎれば・・・ですので(笑))。
能力や根性の無さ、その時代背景、自分自身のタイミング、などなど、いろいろなことが重なって、建築家になれなかった自分。
30歳からの大きなキャリアチェンジ。
それで良かったと思っています。
あれから23年が経ちました。
大分に来てから13年、工務店を始めて6年、シーナリーハウスとして3年、もう少しで4年目に入ります。
社歴の永い会社の多い工務店業界からすると生まれたばかりの会社になりますが、確かな経験に基づく満を持しての完全なる後発での業界への参加、というか、カッコいい言葉で言うと「志からの業界への殴り込み」ですので、ここ数年の時代環境の変化のスピードの速さには一番に対応できる機敏さや有能さを兼ね備えていると自負しております。
建築家になれなかった自分ですが、相も変わらず、建築、デザイン、建築に関わる社会現象、住宅、どれも大好きでありますし、今は、それを工務店の代表という立場で直にお客さまに提供することができますので、それはそれは充実感があります。
おそらく、(仕事のない)建築家になった以上に。
それはそう思っております。負け惜しみでもなんでもなくて・・・
家づくりを生業にする人間としての一番の責務。
それはきちんと将来の「家守り」をしていくこと。
そのために、会社(工務店)を未来永劫「持続可能性100%」にすること。
霞を食って生きる人では、「持続可能性100%」なんぞ、考える余地はありません。
また、
これが究極の真実だと思うのですが、
「自分が幸せになれない(その程度のことも出来ない)人が、他人を幸せにできるはずがない。」
そう思います。
そう思ってシーナリーハウスをやらせていただいております。
工務店らしくないけど、実は、「本来の工務店のあるべき姿」「未来の工務店のあるべき姿」を客観的な視点で追及しております。
シーナリーハウスはそんな会社(工務店)です。
では、
今日は、これで
失礼させていただきます。
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